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浦和地方裁判所 昭和54年(ワ)135号 判決 1988年6月30日

原告

小林繁蔵

原告

小林重子

右両名訴訟代理人弁護士

梶山敏雄

藤本えつ子

佐藤善博

難波幸一

井上豊治

被告

医療法人橋本病院

右代表者理事

橋本稔

被告

橋本稔

右両名訴訟代理人弁護士

福島武

丸山正次

右訴訟復代理人弁護士

菊地博泰

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  原告ら

「1 被告らは各自、各原告らに対し、二一一四万七五七三円及び内一九二四万七五七三円に対する昭和四七年四月七日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2 訴訟費用は被告らの負担とする。」との判決ならびに仮執行宣言

二  被告ら

主文同旨の判決

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  当事者

(一) 亡小林健一(死亡当時二歳一一か月、以下「健一」という。)は、原告両名の子である。

(二) 被告医療法人橋本病院(以下「被告病院」という。)は、外科専門の病院を経営する医療法人である。

被告橋本稔(以下「被告稔」という。)は、被告病院の勤務医師で、その理事を兼務している。

2  医療事故の発生

(一) 手術に至る経緯

(1) 昭和四四年四月二〇日、健一は原告両名の長男として出生し、その一か月後に大宮市内の同仁病院で右鼠径ヘルニア(以下「ヘルニア」という。)と診断された。

同仁病院は、健一が三才位になってからヘルニア治療の手術(以下「ヘルニアの手術」という。)をするように勧めた。

(2) そこで、健一が三才になろうとしていた昭和四七年四月一日、被告病院で診察を受け、病室が空き次第手術をすることになった。

(3) 昭和四七年四月四日午後七時頃、健一は夕食をとると、その後何も飲食することなく就寝した。

(4) 翌四月五日午前九時頃、健一が朝食をとる前に、被告病院から病室が空いたと知らされ、原告らは健一を連れて被告病院に向かった。

(5) 同日午前一一時頃、原告らと健一とは被告病院に着き、午後二時頃まで、廊下で待っていた。

その間、被告病院は健一の体重を計っただけで、健一の健康状態について何の検査・問診もしなかった。

また、右体重測定の際、原告らは健一が三日前から便秘をしていると被告病院の担当者に訴えたが、時間がない、手術には関係がないとの理由で取り合ってくれなかった。

(二) 手術の施行

(1) 同日午後二時頃、被告病院の看護婦が、泣いていた健一を手術室に連れていった。

健一は、手術室に入って一分程で泣き止んだ。

(2) 手術は被告稔の執刀により三〇分間で終了した(以下この手術を「本件手術」ということがある。)。

被告病院の看護婦は、手術後直ちにまだ眠っている健一を抱いて病室に運び、ベッドに寝かせた。

(3) その頃、手術室では、健一と同じ年頃の子が同様にヘルニアの手術を受けて、健一の隣の病室に運ばれた。

(三) 健一の発熱

(1) 同日午後三時頃、(二)(3)の手術(健一の手術に引き続いてされた同じ年頃の子供に対するヘルニア手術)が終わった直後であるが、被告稔は健一の病室の入口から眠っている健一を見て、原告小林重子(以下「原告重子」という。)に対し、健一が目を覚ましたら何か飲ませるように指示を与えた。

この際、被告稔は健一のベッドのそばまできて、診察・観察という症状の確認をしなかった。

(2) 同日午後三時三〇分頃、原告重子は健一の覚醒が遅いので心配になり、自宅から持参した体温計で健一の体温を計ったところ、三七度五分であった。

そこで、原告重子は直ちに被告病院の看護婦にこのことを訴えたが、看護婦から特に指示を受けなかった。

更に、一五分くらい後に再度看護婦に同様のことを訴えたが、やはり取り合ってもらえず、看護婦が病室にきて健一の様子を見ることもなかった。

(3) 同日午後四時頃、隣の病室の子は、手術を受けてから一時間ほどで目を覚まして、泣き出した。

原告重子が、再び健一の体温を計ったところ三八度に上昇していた。

そして、健一は手術後一時間経つのに昏睡状態で、吐く息からエーテルのような臭いがしており、その臭気が病室に充満していた。

そこで、原告重子は、手術立ち会いの看護婦に二度ほど麻酔のかけ過ぎではないかと尋ねたが、「大丈夫」と返事をするばかりで、病室まで見にくることもなく原告重子の訴え、質問を無視し、これを医師へ報告することもなかった。

(4) 同日午後四時五〇分頃、原告重子が、健一の体温を計ったとこて四〇度にまで上昇していた。

そして、健一の顔面が痙攣し、次いで手足を突っ張るようにした。

そこで、原告重子の訴えで病室にやってきた看護婦が初めて健一を検温したところ、体温計は最高表示温度である四二度を示しており、健一の体温は測定が不能の高熱であった。

(四) 被告らの発熱に対する措置

(1) 同日午後五時過ぎ、やっと医師である橋本安太郎(当時の被告病院の院長、以下、「安太郎」という。)がきて、健一に酸素吸入、人工呼吸、開口器装着、注射などの措置を行ったが、症状は好転しなかった。

(2) 同日午後六時頃、安太郎の措置後、原告重子が健一の体温を計ったところ、前記体温計は四二度を示し、右体温計では測定不能であった。

(五) 健一の死亡

昭和四七年四月六日午前〇時三〇分、健一は死亡した。

3  被告らの責任

(一) 被告病院の責任

(1) 債務不履行責任

A 診療契約

昭和四七年四月五日、原告繁蔵、同重子は本人としてかつ健一の法定代理人として、被告病院との間に、被告病院は、同病院において健一に対しヘルニアの手術をする準委任契約ないし請負契約を締結した。

B 被告病院の義務違反

ところで、前記医療事故は、被告病院の次のような医療契約上の義務違反によって生じたものである。

すなわち、

(1) 術前における発熱に対する警戒義務違反―術前検査義務懈怠による脱水症状等の看過と手術の施行

① 小児は手術前に脱水症状や便秘状態・低血糖状態にあると発熱しやすいところ、健一は前にも述べたとおり、本件手術の前日、午後七時ころ夕食をとり、その後何も飲食せずに就寝し、翌朝八時半頃起床し、朝食をとることなく被告病院へ出掛けたので、手術当日、健一は脱水症状を極めて生じやすい状態にあったか、既に脱水状態にあったものであるから、被告病院としても一般個人病院に要求される体重測定・全身診察・問診・検温・心拍数・呼吸数検査等の術前検査をして脱水症状・便秘状態・低血糖症状の発見につとめ、手術を中止するか、手術をするとしても、アトロピン・ケタミン(製品名はケタラールという。)・エーテル等発熱を招来しやすい麻酔薬の使用をさし控え発熱を防止すべき義務がある。

② しかるに、被告病院において健一の診療に当たった被告稔は前記の諸検査のうち体重測定をしたのみでその他の検査を怠たり、手術を施行し、アトロピン等の薬剤を使用したものである。

結局、被告病院には、右の点に重大な義務違反がある。

(2) 術後における発熱への適切な対応義務違反

a① 麻酔手術をする被告病院としてはリカバリールームを備えるべきであり、また、本件手術で用いられた麻酔剤であるエーテルとケタラールとは麻酔剤の中でも特に発熱を招来しやすく、それによる麻酔の覚醒が遅いという性質を有することは、麻酔を施す医師としては当然備えあるいは備えるべき知識であるから、術後の覚醒管理においては、細心の注意を払って、患者が十分覚醒するまで脈拍・血圧・体温・尿量等の状況について観察を継続し、異常が発生した場合には適切な対応をすべき義務がある。

② 被告病院はリカバリールームを設けず、被告稔は、本件手術終了後、健一を病室に移動した後、看護婦の付き添いを付けることもなく、健一の様子を診にきたのは午後三時頃の一回だけであって、その際も、健一の病室から覗いただけに止まり、術後三時間以上も全く覚醒管理をしていなかったのであって、前記2(三)(2)(3)(4)のとおり、被告担当者らは原告重子の再三にわたる健一の体温が上昇したとの訴えに耳を傾けることはなく、原告重子に健一の体温が四〇度まで上昇し、痙攣し始めたことを告知されて初めて様子を診にきたのである。結局、被告病院が術後の覚醒管理を著しく怠たり、発熱に対する早期の対応をしなかったため、健一は死亡したのであって、この点に重大な義務違反がある。

b① さらに、患者に四二度を超える高熱が発生したときは、迅速な処置が必要であり、解熱剤の投与、氷枕・氷水による全身冷却、点滴、アルコール塗布等をするのは常識であり、被告病院としても点滴については冷やした点滴液を用い、更に胃にチューブを入れて氷水・冷たい生理食塩水で胃洗浄をし、また、冷たい水で腹膜灌流をする等あらゆる手段を講じ、痙攣に対しても強力な抗痙攣剤を使用する義務があった。

② しかるに、被告病院の院長安太郎がそのときにとった措置は極めて不十分なものであった。解熱の方法として前記のような氷水による全身冷却・冷却点滴液による点滴、アルコール塗布等により直接身体を冷やすことを全く行っていない。また、健一の痙攣に対しては、安太郎の使用した抗痙攣剤ルミナールでは不十分であった。安太郎のとった措置は極めて不十分であり、被告稔は自らは全く措置を講じることなく、安太郎から報告を受けたときに、前記のような措置を講じるよう指示すべきなのに、何ら異議を述べることもなく適切な指示をしていない。

C 右義務違反と健一の死亡との因果関係

健一の高熱の原因は、健一が術前一九時間もの間全く飲食しなかったことによる発熱しやすい脱水状態にあったと同時に高熱を発生させる痙攣を引き起こしやすい低血糖状態にあったのに、被告病院が前記義務違反をしたため、健一の死亡という結果が生じたのである。したがって、被告病院は、健一の死亡によって生じた損害につき債務不履行責任を負わなければならない。

(2) 不法行為責任

被告稔と安太郎とはいずれも被告病院に勤務する医師であるが、被告稔は(一)(1)B(1)と同(2)a、bの各②に義務違反として記載した過失により、安太郎は(一)(1)B(2)b②に義務違反として記載した過失により発生した健一の死亡につきそれぞれ民法七〇九条の不法行為責任を負うものであるから、被告病院は民法七一五条等により健一の死亡によって生じた損害につき不法行為責任を負うべきである。

(二) 被告稔の責任

被告稔には(一)(2)記載の過失がありこれによって生じた損害につき不法行為責任を負うべきである。

4  損害

(一) 逸失利益

二六九九万五一四六円

健一は、昭和四四年四月二〇日出生したヘルニアがあることを除いては全く健康な二才一一か月(計算上三才とする。)の男子であり、本件手術により死亡しなかったならば、少なくとも一八才から六七才まで就労可能であったと考えられる。

昭和五二年度の賃金センサス第一巻第一表の産業計企業規模計の男子労働者の学歴計の年間給与額は二八二万三五〇〇円であるが、これに五三年度、五四年度のベースアップ分として毎年五パーセントずつを加算すると昭和五四年度の右給与額は次のようになる。

2,823,500×1.052=3,112,909円

中間利息の控除はホフマン式によるものとすると、三才の児童の場合に用いるホフマン係数は次のようになる。

28,325(67年−3年=64年)−10,981(18年−3年=15年)=17,344

生活費を収入の五〇パーセントとし、逸失利益を算定すると、次のとおり二六九九万五一四六円となる。

3,112,909円×0.5×17,344=26,995,146円

(二) 慰謝料 一一〇〇万円

健一は三才という幼さで、人生の楽しみも喜びも全てこれからという時期に生命を奪われ、その苦痛、無念は計り知れないものである。また、その両親である原告らにとっては、健一を慈しみ育てる喜びを突然奪われ、その将来にかけた期待や希望を裏切られた精神的打撃は筆舌に尽くしがたい。これらを強いて金銭に評価するなら次の金額が相当と考えられる。

(1) 健一本人の慰謝料 五〇〇万円

(2) 原告らの固有の慰謝料

各自三〇〇万円

(三) 原告らの相続

原告らは健一の逸失利益二六九九万五一四六円及び健一の慰謝料五〇〇万円の損害賠償請求権を各二分の一ずつ相続した。

(四) 葬祭費 五〇万円

原告らは健一の葬祭費として五〇万円(各自二五万円)の出費を余儀なくされた。

(五) 弁護士費用 三八〇万円

原告らは、本件訴訟を遂行するために、原告訴訟代理人らに弁護士費用として、請求額の約一割である三八〇万円(各自一九〇万円)を支払う旨約した。

5  結論

よって、原告らは各自、各被告らに対し、不法行為ないし債務不履行による損害賠償請求として各二一一四万七五七三円及び右各金員からそれぞれ弁護士費用を除いた各一九二四万七五七三円に対する本件医療事故発生の日の翌日である昭和四七年四月七日からそれぞれ支払いずみまで民法所定の年五分の割合による各遅延損害金の支払を求める。

二  請求の原因に対する認否

1  請求の原因1(当事者)の事実は、すべて認める。

2  請求の原因2(医療事故の発生)の事実について

(一) 請求の原因2(一)(1)について

前段のうち、健一の出生の点は認め、ヘルニアと診断された点は不知。

後段は不知。

(二) 請求の原因2(一)(2)について認める。

昭和四七年四月一日に、健一を診察したのは被告病院の元院長橋本安太郎であるが、この際異常所見はなく、アレルギー症、既往症等は認められなかった。

(三) 請求の原因2(一)(3)は認める。

(四) 請求の原因2(一)(4)のうち、被告病院が電話をかけた時刻はもっと早かったが、健一が朝食を取っていたかどうかは不知。その余は認める。

(五) 請求の原因2(一)(5)のうち、原告らと健一とが来院し廊下で待っており、その間体重を計ったとの点は認め、その余は争う。

当日、健一は風邪等を訴えることもなく初診時の状態と変わりなかった。

(六) 請求の原因2(二)(1)について

前段のうち、手術の開始時刻を除き認める。手術の開始時刻は、午後一時三〇分頃である。

後段について、健一が泣き止んだのは麻酔のためであるが麻酔が効くまでには数分かかる。

健一に麻酔をかけた経緯は、次のとおりである。

昭和四七年四月五日午後一時三〇分頃、健一は手術室に入った。

そして、被告稔は健一に麻酔剤として、硫酸アトロピン0.4cc、次いで麻酔剤ケタラール2.0ccを注射し、健一を安静にし、手術中の心音が確認できるように健一に聴診器を固定した。

ヘルニア根治手術の際、二歳程度では通常血圧を測定せず、心音聴取を用いて手術する。

(七) 請求の原因2(二)(2)について

前段は認める。

手術自体は、約一〇分で何のトラブルもなく終了した。

但し、手術開始時に健一が動き手術するのに困難を覚えたので、オープンドロップ法で少量のエーテル(二、三分間で一〇cc)を追加し、健一の動きがなくなったので中止した。

後段のうち、手術後直ちにとの点は否認し、その余は認める。

手術終了後、手術台に健一を寝かせて、被告稔は健一を観察し、呼吸の正常、喀咳吸引を行い舌根沈下はなく気道が確保されており突発的呼吸障害の起こりそうにないことを確認して、病室に返した。

(八) 請求の原因2(二)(3)は認める。

健一の次の患者も、健一とほぼ同じ三歳位の小児で、同じヘルニアの手術を受けて、前同日午後三時過ぎころ、健一の隣の病室に運ばれた。

(九) 請求の原因2(三)(1)のうち、被告稔が回診した時刻と症状の確認をしなかったとの点は否認する。

被告病院の回診の経緯は次のとおりである。

前同日午後二時三〇分頃、被告病院の元院長橋本安太郎が回診した。

その後、被告稔は健一の病室を回診して、健一の呼吸様式に変化なく、顔面紅潮等存せず、安眠中であることを確認したうえで、原告重子に対し、健一の首を曲げ顔を横に向かせて寝かせ嘔吐等による窒息が起こらないようにし、健一が目を覚ましたら水を摂取させても良いと指示した。この時、健一には異常は認められなかった。

(一〇) 請求の原因2(三)(2)について

前段は不知。その余は否認する。

(一一) 請求の原因2(三)(3)について

第一段のうち、隣の病室の患者が、午後四時頃、目を覚ましたことは認める。この患者は既に退院している。

第二段について、前同日午後四時少し前頃、健一の体温は三七度五分であり、午後四時少し過ぎ頃、三八度に上昇していた。

第三段のうち、健一の吐く息からエーテルのような臭いがしたとの点は認め、その余は否認する。

第四段は否認する。

(一二) 請求の原因2(三)(4)について

前同日午後五時少し前頃、健一の体温は四〇度に上がり、原告重子が看護婦室に急を告げ、間もなく被告病院の元院長橋本安太郎が請求の原因2(四)(1)記載の措置を講じた。

(一三) 請求の原因2(四)(1)のうち、前同日午後五時頃、被告病院の元院長橋本安太郎が健一に請求の原因2(四)(1)記載の措置を講じたことと、にもかかわらず健一の症状が好転しなかったことは認め、この措置が不適切であるとの点は争う。

被告病院の元院長橋本安太郎は、健一に対して、解熱剤、副腎皮質ホルモン、昇圧剤、強心剤等の注射、輸液、酸素吸入・人工呼吸等の適切な処置を行い治療にあたった。

(一四) 請求の原因2(四)(2)について

被告病院の元院長橋本安太郎が、適切な措置を講じたにもかかわらず、健一の体温が四二度にまで上昇したことは認める。

(一五) 請求の原因2(五)は認める。

3  請求の原因3(被告らの責任)について

(一) 請求の原因3(一)(1)について

Aのうち、健一の法定代理人である原告らと被告病院との間で診療契約が締結されたことは認め、原告繁蔵、同重子と被告病院との間で診療契約が締結されたことは否認する。

Bは争う。すなわち、

B(1)について

被告病院が健一にヘルニア手術を施行したこと、アトロピン・ケタミン、エーテルを投与したことは認めるが、その余は争う。

本件手術当時、健一が脱水症状を極めて生じやすい状態にあったか、既に脱水症状にあったということは医学的にはありえない。なぜなら、小児が脱水症状を示すには少なくとも一日半から二日間全く飲食しないことを要するが、原告らは昭和四七年四月五日午前九時ころ、被告病院からの電話を受けて来院したと主張するのであるから、健一は既に朝食を済ませていたであろうし、少なくとも前夜夕食をとったことも間違いないと思われるからである。しかも、健一は下痢ではなくて便秘をしていたのである。

(なお、便秘は本件手術に本質的に影響がない。)

被告稔は、初診時に健一に異常がなく、本件手術当時、健一の全身・局所状態に異常がなく、その他既往症等もないことを確認したのであって、その他特別な術前検査をせずにヘルニア手術をしたとしても、何らの義務違反もないのである。

B(2)について

aについて

本件手術当時、被告病院にリカバリー・ルームがなかったことは認めるが、本件事故当時の医療水準からは、リカバリー・ルームを有していなかったとしても、被告病院には何らの義務違反もない。

また、本件手術にあたって、ケタラールとエーテルとの二種類の麻酔剤を使用したことは認める。

覚醒までの最大の問題は、呼吸維持であり、呼吸抑制の有無・嘔吐等による窒息防止等に覚醒管理の主眼がある。そして、覚醒の遅延に対しては、「待つこと」が最上の手段である。

ケタラールの効果は個人差が非常に大きく、術後の覚醒時間は一時間から数時間の開きがあるから、同室の患者が一時間半くらいで覚醒した時に健一が覚醒していなくとも異常ではない。

したがって、前記のとおり、術後の午後二時三〇分ころ、安太郎、被告稔が回診し、健一に呼吸様式の変化、顔面紅潮等がなく、安眠したのを確認したうえで、原告重子に対し健一の首を曲げて嘔吐を防止し、覚醒したら水を摂取してもよいと指示していた以上、健一が自然に覚醒するのを待ったことは医学的に見て適切な措置であり、被告病院には何らの義務違反もない。

bについて

高熱を生じたとき、これを下げるため冷やした点滴をし、冷たいものをどんどん腹の中に入れるのが現在における処置方法であるが、当時の一般外科医の水準はこのような処置をする段階に至っていなかった。

健一に異常が生じた後は、安太郎が適切な処置(請求の原因2(四)(1)のとおり)を施しており、この処置は使用した薬から見るかぎり当時の外科医として期待されるところを満たしたものであり(カルテにもその記載はある。)、安太郎にはこの点につき過失はない。したがって、被告稔にも何ら過失はない。結局、被告病院に義務違反はない。

Cは争う。

健一の死亡の原因は悪性高熱症である。

悪性高熱症とは、麻酔中あるいは麻酔後、異常な高体温を発生する筋の代謝異常症であると言われている。その臨床症状は、急激に体温が上昇し、四肢末梢が熱くなり、発汗が著しいというものである。原因はいまだ解明されていない。発生頻度は低い(小児または若年男子に多く七〇〇〇ないし一万四〇〇〇例中の一例くらい)が、その予知は不可能で、重篤な結果を招来しやすい(死亡率は六〇パーセントから九〇パーセントとも七〇パーセントともいわれている。)ものである。

健一の発熱についてみると、①高熱発生の経過、②悪性高熱症は麻酔後一時間ないし三時間の間にも起こること、③悪性高熱症は笑気ハローセンを使用したときに発生することが多いが、ケタラール、エーテルでも起こることを踏まえれば、健一の症状はまさに上記の悪性高熱症の症状であり、その死亡原因は悪性高熱症である。

(二) 請求の原因3(一)(2)について

被告稔と安太郎とが被告病院に勤務する医師であることは認める。

後記のとおり、被告稔、安太郎のいずれにも過失はないのであるから、被告病院が不法行為責任を負うものではない。

(三) 請求の原因3(二)について

被告稔には、何らの過失がないことは既に述べたところから明らかであり、また健一の高熱は、悪性高熱症によるものであるから、結局、被告稔は不法行為責任を負うものではない。

4  請求の原因4(損害)は争う。

5  請求の原因5(結論)は争う。

第三  証拠<証拠>

理由

一当事者

請求の原因1は、当事者間に争いがない。

二医療事故の発生

1  手術に至る経緯

<証拠>によれば以下の事実が認められる。

(一)  健一は、昭和四四年四月二〇日、原告両名の長男として出生し(当事者間に争いがない)、その出産の際母が入院していた大宮市の鈴木産婦人科医院において生後一か月の検診を受け、ヘルニアと診断された。原告両名は、同産婦人科で紹介された大宮市の萩原同仁外科病院においても、健一はやはりヘルニアであるとの診断を受けて、健一が三歳から四歳までの間にヘルニアの手術を受けるのが望ましいと言われた。

(二)  健一が三歳になろうとしていた昭和四七年四月一日、原告両名は、健一にヘルニアの手術を受けさせようと考えていた。そこで、健一は被告病院で診察を受け、病室が空き次第手術をすることになった(当事者間に争いがない。)。この際、安太郎が診察にあたり、先天性アレルギーなし、全身状態に異常なしと判断した。

(三)  健一は、昭和四七年四月四日午後七時頃、夕食をとり、その後は何も飲食することなく就寝した(当事者間に争いがない。)。

(四)  翌五日午前九時頃、健一が朝食を取る前に、被告病院から病室が空いたとの知らせを受けて、原告両名は健一(以下、「原告ら」という。)を連れて被告病院に出掛けた。

(五)  原告ら及び健一は、同日午前一一時頃、被告病院に着いて、午後二時頃まで廊下で待っていた。この間、被告病院は健一の体重を計った(当事者間に争いがない。)が、原告両名から当日の健一の体調を尋ねること、健一の体温・心拍数を測定することは行わなかった。

2  手術の施行

(一)  <証拠>によれば、次の事実が認められる。

昭和四七年四月五日午後二時頃、被告病院の看護婦が泣いていた健一を手術室に連れて行き、この際、原告重子は、被告病院の看護婦に対し、健一が三日間便秘していると告げたが、これに対する対応は特にされなかった。

(二)  <証拠>によれば、被告稔は手術室に入った健一を診察し、貧血の有無、皮膚の緊張度等の状態の確認をしたうえで麻酔を掛けることとし、まず、基礎麻酔として硫黄アトロピン0.4ccを注射し、五分程おいて、全身麻酔剤としてケタラールを健一の体重(13.5kg――成立に争いのない甲第二号証の一、五による)一kgあたりにつき七mgの割合で1.0ccあたり五〇mg含まれる注射液を2.0cc(ケタラールの含有量一〇〇mg)を注射したが、引き続きヘルニアの手術を開始するためには麻酔の効きが足りないので、安太郎によりエーテルがオープンドロップ法で(四、五分間で約一〇cc)追加され、その間に手術を開始して、手術自体は一〇分程で終了したこと、術後一〇分位の間呼吸障害が起こりそうにないことを確認してから、看護婦により健一が病室に運ばれたことがそれぞれ認められる。

(三)  <証拠>によれば、被告稔は健一の手術に続いて健一と同じ歳ごろの小児に同じヘルニアの手術を行い、同児は術後健一の隣の病室に運ばれたことが認められる。

3  健一の発熱

<証拠>によれば以下の事実が認められる。

(一)  被告稔は、健一の次の小児の手術を終えた午後三時少し前に、健一の病室に行くと健一が眠っているのを見て、原告重子に対し、健一が目を覚ましたら何か飲ませるようにと指示した。

(二)  午後三時半頃、原告重子は健一の覚醒が遅いので心配になり、体温を計ってみたところ三七度五分あったので、看護婦に健一の目が覚めないが大丈夫かを尋ねに行ったが、麻酔が効いているとの答えであった。その後も、原告重子は看護婦に同様のことを訴えたが取り合ってもらえなかった。

(三)  午後四時頃、原告重子が再び健一の体温を計ってみると三八度になっていた(当事者間に争いがない。)。

(四)  午後四時五〇分頃、原告重子は夕食をとった後健一の体温を計ると四〇度にまで上昇していた。

その直後から、健一は、顔がつっぱり、もがき始め、顔面に端を発した痙攣は身体全体にまで及んだ。そこで、原告重子が看護婦を呼びに行ったところ、看護婦は健一の病室まで一度来ると安太郎を呼びに戻った。

(五)  午後五時過ぎには、安太郎は看護婦と共に健一の病室にきて、健一に対する処置(後記4認定)を開始したが、その後原告重子が健一の体温を計ったところ四二度以上になっていた。

4  健一の発熱に対する被告らの措置

(一)  午後五時過ぎ、安太郎が健一の病室に来て、発熱に対する措置を開始したことは当事者間に争いがない。

(二)  <証拠>によれば、安太郎は看護婦と共に発熱に対する措置として、①解熱剤である二五プロのメチロン0.4ccを一、二時間置きに三回に分けて筋肉内注射し、②抗炎症薬である副腎皮質ホルモンのデカドロンを最初四ml、後に更に二ml追加して点滴し、③輸液であるフルクトラクト五〇〇ccを静脈切開の方法で点滴し、④鎮静剤であるルミナール0.3ccを筋肉内注射し、⑤強心剤であるビタカンファー四回を筋肉内注射し、⑥昇圧強心剤であるエフェドリンを注射し、処置手術として①O2吸入、②胃液吸入、③一時間の人工呼吸、④気管内吸引をそれぞれ施した。

5  健一の死亡

昭和四七年四月六日午前〇時三〇分、健一が死亡したことは当事者間に争いがない。

三被告病院の責任

1  債務不履行責任について

A  診療契約の成立と内容

<証拠>をあわせれば、健一の法定代理人としての原告らと被告病院との間に、昭和四七年四月五日、健一のヘルニアの手術に関して診療契約が締結されたことが認められる。

そして、右契約の診療契約としての性質に鑑みると、特段の事情が認められない限り、被告病院は健一に対し、ヘルニア治療に関し、当時の医療水準に照らし合理的な診療をする旨の契約上の義務を負ったとみるのが相当である。

B  被告病院に義務違反はあるか

(一) 鑑定証人鈴木玄一、同藤原孝憲の各証言(以下、それぞれ「鈴木証言」、「藤原証言」という。)によれば、小児は手術前に脱水症状や低血糖状態にあると発熱しやすいこと、アトロピン、ケタミン、エーテルがときに発熱を招来しやすい薬であることが認められる。

そして、<証拠>によれば、麻酔前に患者に対してされるいわゆる術前検査は、手術の危険度を判定し、適切な麻酔薬及び麻酔方法の選択を行い、患者の全身状態を改善して最良の肉体的条件下で手術を行うために必要であり、最少限体重測定(麻酔薬の量の算定基盤として)と全身診察を行い、また、麻酔前に、体温(麻酔を中止すべきか否かを判断する基準となる。)、心拍数(脱水の有無の判断と麻酔管理のため)、呼吸数の各測定を行うのが、医療の常道であったことが認められる。

ところが、本件手術では、実際には、手術当日である昭和四七年四月五日、午後二時までに被告病院は健一の体重を測定し(二1(五))、続いて、被告稔は手術室で健一の全身状態を診察した(二2(二))に留まり、特に、体温、心拍数、呼吸数の測定を行わなかったことは既に認定したとおりである。

しかしながら、鈴木証言及び藤原証言ならびに藤原鑑定によれば、健一は前夜からの絶食のため手術当時平常値の二ないし三パーセントの水分不足の状態にあったことがうかがわれるものの、手術を中止したり、アトロピン、ケタミン、エーテルの投与をさしひかえるべき程度の脱水症状にあったと認めるに足りる証拠はない。また、健一が低血糖状態にあったと認めるに足りる証拠はなく、かえって、藤原証言によれば健一は低血糖状態にはなかったことが認められる。

したがって、被告病院には健一が脱水状態、低血糖状態にあったことを前提とする義務違反があるとはいえない。(なお、便秘が発熱と関係があると認めるに足りる証拠はない。)

(二)a 鈴木証言及び藤原証言ならびに鈴木鑑定をあわせれば、手術終了直後、患者の全身状態を調べ(心拍数、血圧、呼吸状態、体温等を調べる。)、出血量、尿量を確認し、胃内容物を吸引してから病室へ移すべきであり(なお、本件手術当時リカバリー・ルームが被告病院になかったことは当事者間に争いがないが、このことが当時の医療水準を下回ることを認めるに足りる証拠はない。)、術後は患者が覚醒するまで全身管理をすべきであって、医師が不在のときは看護婦をして代わりにこれらの監視(定期的に心拍数、血圧、呼吸数、体温等を測定)をさせ、異常があれば早期に発見し機を失することなく適正な対応措置を講ずべきであったことが認められる。

ところが、本件手術では、被告稔は、手術直後一〇分程、健一に呼吸障害が生じそうにないことを確認した後病室に移しており(二2(二))、術後は、午後三時少し前に病室に行き、健一が眠っているのを見て、原告重子に健一が覚醒したら何か飲ませるようにと指示した(二3(一))。

しかしながら、その後、原告重子が二回看護婦に健一の覚醒が遅いとの不安を訴えたにもかかわらず、看護婦はこれに取り合わず(二3(二))、結局、健一の体温が四〇度にまで上昇したので、原告重子が三回目に看護婦を呼びに行くまでは、何らの管理も監視も行われなかった。

そうすると、右の限度で被告稔には術後覚醒管理の義務違反―発熱への対応措置懈怠があったといえる。

b <証拠>をあわせれば、本件手術当時の医療水準では、術後に発熱した場合には、発熱に対する対症療法的な対応措置として全身冷却を行うことが必要とされていたこと、右の全身冷却の方法としては、氷水に全身をつける程の積極的な体外からの冷却という方法と冷却した細胞外液補充剤二ないし三l静注等による体内からの冷却という方法があるが、本件手術当時、個人病院の外科医には氷枕等で身体を直接冷やすことと、通常の点滴を行うことまでしか期待できなかったことが認められる。

ところが、本件の場合は、右のような冷却方法がとられたかどうか定かではないが、安太郎が、既に認定したような措置(二4(二))を講じており、鈴木証言、藤原証言及び藤原鑑定によれば、この安太郎の措置については使用した薬剤、処置ともに妥当なものであったことが認められ、医療にはその性質上方法の選択等について医師になにがしかの裁量が認められることを考慮に入れるならば、かりに右のような冷却方法をとらなかったとしても、これを義務違反とはいえない。

したがって、被告稔が、安太郎に対して健一の発熱に対する措置につき適切な指示をすべきであったとの原告らの主張については判断するまでもない。

そうすると、発生した高熱に対する被告稔および安太郎の措置は義務違反とはいえない。

C  術後管理義務違反と健一の死亡との因果関係

それでは、被告病院が、仮に、前記認定の管理ないし監視をしていたとすれば、健一の死亡を避け得たであろうか。

もし、管理ないし監視がなされて早期に異常を発見していたら健一の死を回避できたということができるのでなければ、前記(二)の義務違反と健一の死との間に因果関係を認めることができない。

ところで、鈴木鑑定及び藤原鑑定並びに鈴木証言及び藤原証言によれば、専門医からみて、脱水、アトロピン、ケタラール、エーテルのそれぞれが相互に関与しあって健一が発熱した可能性は否定できないこと、健一の体温が三八度に上昇した時点で、身体冷却等の措置を講じていれば、事態が好転したかも知れないが、実際に好転したとはいい切れないことが認められる。

しかも、藤原鑑定及び藤原証言によれば、前記認定のような健一の急激かつ急速な体温の上昇の仕方等からみて、それが悪性高熱症によるものとの疑いを否定できないことが認められる。

そして、<証拠>によれば、悪性高熱症とは麻酔薬、麻酔補助薬、その他の刺激によって麻酔中、麻酔後に異常な高体温を発生する代謝異常であり、その原因が不明で、本件手術当時で六〇ないし八〇%の死亡率であることが認められるのである。

そうすると、前記の時点で身体冷却等の措置を講じていたとしても、健一の死を回避できたとまではいえないことになる。

D  結局、被告病院は健一の死亡により生じた損害につき債務不履行責任を負うとはいえない。

2  不法行為責任について

被告稔には、前記のような術後管理の点で管理ないし監視を怠った過失があるといえるが、右1について述べたと同様の理由で右過失と健一の死亡との間の因果関係があるとはいえない。

術後管理を除くその他の点で被告稔及び安太郎に過失があったとは認められない。

そうすると、被告病院には不法行為に基づく損害賠償責任があるともいえない。

四被告稔の責任

被告稔は術後管理において過失がある(その余の点に過失は認められない。)ことは前記のとおりであるが、右過失と健一の死亡との間に因果関係があるといえないことは前に述べたところから明らかであるから、被告稔には不法行為に基づく損害賠償責任があるとはいえない。

五むすび

以上のとおりであるから、その余の点を判断するまでもなく、原告らの被告らに対する請求はいずれも理由がない。

よって、本訴請求を棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官小笠原昭夫 裁判官平林慶一 裁判官永井裕之)

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